2015年07月29日

エクストリーム・死チュエーションコメディ・ゴーズオン

新宿サニーサイドシアター。第十回公演にして初の自主公演での東京進出、だったっけかな。
今のアガリスクのお客さんで『死チュエーションコメディ』という芝居のことを知っている方は、ほとんどいないだろう。
まだまだ、地元の仲間とどこか牧歌的に演劇をやっていた昔の話だ。


一応、リンクを貼っておく。今ではおなじみの「貧民割引」のスタートもこの公演だったらしい。

で、別にノスタルジーに浸りたいわけではない。生憎そんな暇はない。過去を掘り返すには、それなりの意味がある。
8月に迫った『黄金のコメディフェスティバル』でかける最新作『ワイフ・ゴーズ・オン/七人の語らい』が、どうもこの『死チュエーションコメディ』の進化系というか延長線上の作品になりそうだからだ。
『死チュエーションコメディ』のあらすじは、よくある「シチュエーションコメディ」のあらすじのそれなので、特に書く必要はないだろう。気になる人は上のリンクからどうぞ。手垢の付いたまったく引きのないプロットである。
実は、そんな代わり映えのないコメディを、アガリスクが疑い始め手放し始めたのがこの作品からなのだ。なにが『死』なのかと言えば、そこなのである。『死チュエーションコメディ』は、物語としても芝居のリアリティとしても穴だらけのコメディ(つまり良くあるコメディ)を90分くらい普通に上演し、それを最後に裏切るというメタ構造の作品だ。全方向に嘘をついて誤魔化してきた主人公が状況(シチュエーション)を回せなくなった時点で、そこで行われていた全てが、主人公以外の全員による「この状況を覗いて笑っている、物好き達への自覚的パフォーマンス」、つまりドッキリであったことが語られ、「本当に隠せるわけないじゃん、誤魔化せるわけないじゃん、勘違いするわけないじゃん」と卓袱台を返してそのまま終わるのだ。そういう意味での「DEATH」なのだ。今でこそ「普通のコメディに興味ありません」なアガリスクエンターテイメントが、初めて既存の「シチュエーションコメディ」をポストの視点で批判的に切り取った、そういうターニングポイントだったのかもしれない。
しかし『死チュエーションコメディ』については最終的に(正直なところ当時の作品のほとんどがそうだったように)コンセプト倒れ、という評価をせざるを得ない。いかにそこに批評的・批判的視点があろうが、ラストシーンで「実はこうでした」と観客を置いて行っている、しかもそのひっくり返す手際も美しくない。その上それがバカバカしくもなく「コメディ」として成立していない、つまり圧倒的に「コメディ」として失敗作なのである。巧くもないメタフィクションと大したことのない「ドンデン返し」、つまりとてもナマクラな、格好悪い作品だったのである。冨坂がよく当時のアガリスクを評するときに使う、「演劇全般がヘタ」という表現がピッタリくるのである。
しかし、その後「コメディ」に対する批評的・批判的姿勢はアガリスクのスタンスとなったのも事実だ。「舞台の簡略化」「状況の可視化」「非喜劇的設定」、、、そのスタンスのひとつの到達点に、『エクストリーム・シチュエーションコメディ』がある。手法の奇抜さで語られがちな『エクストリーム〜』だが、「シチュエーションコメディ批評の表現としてのシチュエーションコメディ」という点では、画期的であると同時にアガリスクの正統的系譜であると言えるだろう。

長くなったが、コメフェス作品はつまり、「シチュエーションコメディ批評コメディ」の最新版アップグレードを観せます、てことです。もちろん、最高に刺激的で端的な表現で。俺たちがコメディに対して思う全ての課題と弱点を斬って、論じて、愛して、そして笑い飛ばします。あのとき、右も左もわからない千葉の田舎劇団(今もそうだけど)だった俺たちに出来なかったコメディを、しかし確実にその実験的精神に連なるコメディで、今年こそコメフェスを獲ります。
だから二重の意味でのリベンジです。





posted by 淺越岳人 at 00:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 芝居 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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